★大好きな温泉の魅力と日々の雑感なども書いてみようと思います★
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。
初めて草津へ行った時、行きは夜だったせいか全くその存在に気が付かなかったのですが、帰り道ある場所の前を通り過ぎると私の眼に飛び込んできたものがありました。
それは国立療養所栗生楽泉園という看板でした。

だいぶ昔ですが、父親に連れられて東京都にある「多磨全生園」という場所に行き実際に「多磨全生園」の中を少し見たことがあります。
当時はそこが普通の病院だと思っていた私は実際に「多磨全生園」の前に行き刑務所のような分厚い重い扉の向こうで見た光景にはかなりの違和感を覚えました。
父は仕事の関係で園内へ行きそこの数人の職員と険しい顔で何かを色々話して
いました。側で見ていた私は
病院なのになぜ看守のような人がいてこんな分厚い扉で入る人を厳重にチェックしてるのか?
その中には平屋建の家が並び、お店もあり今でも強く印象に残っているのは小さな
「郵便局」があったことです。
父が言うにはこの「多磨全生園」の中で生活できるように私達が住む外の世界と同じものがこの小さな「多磨全生園」の中に取り揃えられてあると・・・。
しかし、園内は職員がいる建物は非常にきれいでまるで学校の職員室。
人が住んでいるであろう長屋の方は人が住んでる気配が感じられなく
静かだったのを覚えています。

当時はまだこの存在のことを詳細には知らなかったので違和感程度のものしか感じませんでしたが「多磨全生園」の分厚い扉を出た後の帰り道、父に言われました。
「未だにこんなことをしてるのはおかしい。」
そして、家に帰って母も同じように話してくれました。
「もう完治する薬があるのに、何であんな監禁のようなことを国はするのか」父と母に言われたのを覚えています。

そして、草津の帰りに眼に入ってきた「国立療養所栗生楽泉園」と言う看板。
その国立療養所○○園と刻まれたものを見て、ああ、ここにもあったんだと。
「多摩全生園」の記憶がはっきり甦ってきました。
そういえば、草津温泉のお湯の効能を世界に広めたベルツ博士は、
ハンセン病患者の人にも草津の強酸性のお湯は効果がある、として発表していたので
ここにあっても不思議ではなかった。


草津の国立療養所「栗生楽泉園」と言うハンセン病の施設。
国立療養所と言う名を冠したアウシュビッツのような施設がここにもあったとは・・・。
そこで少し私なりに少し調べてみました。

720年日本で初めて「癩」と言う言葉が日本書紀に登場する。この当時は「ハンセン病患者」がどのような扱いを受けていたかは良く分かりませんが、特別なものでは無かったようです。

1120年以降に作られた今昔物語集で、比叡山の僧侶が仏罰をうけて「白癩」となり、 穢れた者として捨てられ、他の病者からも嫌われて死んだことが書かれています。
仏教は因果応報思想と言うものがあり「らい」は仏にそむいた者や前世の因縁にふりかかる業病、 天刑病であると考えられるようになりました。

1589年 天正17年に敦賀城主となった大谷吉継。
石田三成は彼の病気が「らい」だと知りながらも、お互いの親交は篤く
肉親でも裏切るのが常の戦国時代に生きた彼は、関が原の戦いでは
石田三成に加勢して自決しました。
彼は草津に湯治に訪れ、目に効いたと語ってます。
この当時、創傷や色々な皮膚病など草津の湯は効くと全国的に有名
であったと言えます。

石田三成と言えば、当時一流の知識人です。
そして、死の直前まで自身の健康をも考えていた人です。
彼は大谷好継がらいだと承知で深い親交をしていたのですから、
やはりこの当時も伝染病とは考えられていなかったのでしょう。

江戸時代になると「ハンセン病疾患者」の主な生活はと言うと、他力本願の乞食。
神社の参道、仏閣の門前、庶民の家々を回って物乞いをし生計を立ててました。
そしてこの時代には「らい」は遺伝という考え方が定着していました。
江戸時代も後期になると幕府の統制力が弱まり人々が他国への往来が可能になります。
そしてらい病患者の放浪が全国的に見られるようになりす。
当然のように 近代まで「ハンセン病患者」と「健常者」は共存していました。

明治6年ノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師が「らい菌」を発見しま す。
明治7年にはこれを学会に発表ましたが、承認はなかなか得られませんでした。

明治12年 細菌学者のナイセルがこれを確認します。がしかし、、日本ではらい病の原因については遺伝説が多数をしめていて、伝染病であると言う説は受け入れられませんでした。
らいはいまだに遺伝であると信じられていました。

明治19年  群馬県吾妻郡草津に湯の沢部落ができます。
昔から草津の湯は皮膚疾患に効くと言われていました。
明治17年にベルツ博士が草津温泉の効能を発表すると、以前にも増して日本国中から「らい患者」が訪れ草津に長期間湯治をするようになり、また住み着くようになります。

しかし、「草津町」は「らい患者との入浴」は町の「発展の妨げ」になるとして、湯川沿いの谷間に
「らい患者専用の湯」を引き、ここに部落を形成する方針を決定します。

草津町はベルツ博士により世界に知らされた温泉観光地です。
行政はそこにらい患者はいて欲しくなかったのでしょう。
湯の沢部落を作り草津町と分離させらい患者を押し込めたのです。

この場所は昔、病者の遺体が投げ捨てられていた地域で「投げ捨ての谷」または「骨ヶ原」と呼ばれた場所でした。(現在の大滝の湯を中心とした地域です。)
町の人達が忌み嫌う場所にらい患者を隔離する。
当時の行政のらい患者への嫌悪にみちた差別を感じます。



明治20年 草津町は湯の沢をらい患者湯治場として草津本町から分離します。
明治22年 フランス人神父のテストウィードがハンセン病療養所(静岡県 後の神山復生病院 )
設設立します。その後、イギリス、アメリカの、外国人キリスト宣教師達が明治22年から31年にかけてそうした施設をつくり、日本政府に代りらい患者達を救済しています。

日本政府は知らぬ存ぜぬだったのです。そんな日本政府の対策に外国から厳しい批判を受けけます。この外国からの批判は後の「癩予防ニ関スル件」と言う 悪法を生む結果になったのかも知れません。

明治30年 第一回国際らい会議がベルリンでおこなわれ、らいは感染症であると確認されます。
この頃かららい病患者はそれが遺伝ではなく感染病だと言うことが人々に認知されるようになります。当時、欧米ではハンセン病はすでに過去の病気となっていました。

そして、外国からの批判もより厳しくなります。ハンセン病患者の対策をしないのは文明国として不名誉な事であり恥辱であるとする国辱論が生まれます。


明治40年 法律第11号(癩予防ニ関スル件)制定されます。
浮浪患者が文明国を自負する日本でうろつかれていては困ると言う理由で政府は浮浪患者の収容をするために法律を作り放浪らい患者の収容を始めます。
政府の体面を保つためです。
この法律は救護がたてまえでしたが、実際は
「強制収容」「らい患者絶滅政策」が目的でした。


明治42年 全国5か所青森、東京、大阪、熊本に府県連合立療養所(公立療養所)が開設されます。【強制隔離】をする場所です。以後90年にも及ぶ政策が続きます.
同年、第2回国際らい会議がベルゲンでおこなわれ、「らい菌」は感染力が「弱い」と言う事が発表されます。        

すでにらい病感染力が弱いと医学的に立証されていたのにもかかわらず、政府は天然痘やコレラにも勝るとも劣らない恐ろしい伝染病だと発表します。これにより国民はらい病に関する間違えた認識を植えつけられてしまいます。当時全国に3万人いたとされるらい患者に対し上記の施設の収容定員はなんと約1000名でした。

また、街に浮浪してる患者を強制連行し在宅の患者は対象外でした。
法律では「療養所ニ入ラシメ之ヲ救護ス」と規定されていましたが、実際は救護ではなく、隔離して刑務所のように統一の着物を着せ24時間体勢で監視日常的に秩序維持という官による暴力が日常的 に行われました。
治療などするための施設ではありませんから、入所者から不満の声も当然上がります。
そして、各施設では職員との衝突が起こり始めます。


大正4年 生病院院長、光田健輔は施設内での男女間の交渉を認めるのは秩序の維持に繋がると考え結婚を許可する条件としてワゼクトミー(精管切除)を実施します。
らい患者絶滅政策のもとで、患者を根絶して子孫を残さないための措置です。これに伴い全国の施設でも手術は行われました。

患者の人権も何もありません。人間として認めてなかったのです。
昭和14年まで1000人以上の患者が手術を受けさせられました。
家畜のように強制的に去勢されたのです。そして、結婚しても夫婦の部屋というものは存在せず、夫が女性入所者の雑居部屋に通うというものでした。


大正5年 癩予防ニ関スル件」の一部改正により療養所長に懲戒検束権が与えられます。
この法律は所長が入所者に対し各種の懲罰刑を裁判の手続きをせず
所長の裁量で行使できる権限を与えたのです。

この懲罰の内容は謹慎、減食、監禁などでした。
すでに、療養所は「救護」とう性格のものではなくなり「懲罰」と言う刑務所同様なものに移行します。この頃各施設には監禁室「監房」が設置されます。国の意向としては、らい病患者絶滅が主目的ですから当然収容者には人権などありません。
重犯罪者と同じ処遇です。


大正15年 第3回国際らい会議がストラスブルグで行われハンセン有効ではあるが、実施にあたっては柔軟な態度でのぞみ患者には細かい配慮を払うべきだということが決議される。 


昭和4年 愛知県の民間運動が発端となり「無らい県運動」が始まり
岡山県や山口県と続く。政府は国立の療養所を作る事に決める。
候補地探しを命じられたのは、全生病院長であった光田健輔で、光田院長は「患者隔離」の観点から島か半島が最適とし 岡山県長島に療養所を新設することが決まる。


昭和5年 内務省衛生局が「癩の根絶策」を発表。「50年根絶計画」等を起案する 政府はこの
「癩の根絶策」を国辱論も交え、らい病とはどんなに恐ろしい伝染病か?らい病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策であるという事を国民に周知させる。 
この年日本初の国立療養所「長島愛生園」(岡山県)が開園。
明治には、らい菌は感染力が微弱だと公式発表されているにもかかわらずこの政策です。
実際過去にも常時患者と接触してる医師や看護士達が感染した事実はありません。 

昭和6年 法律「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改正され「癩予防法」が制定されます。
これにより在宅患者の強制隔離が開始されます。   

主な改正点は、それまでは療養所入所対象が「療養ノ途ヲ有セス且 救護者ナキモノ」とされていましたが、これが「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモ ノ」とされます。

行政官庁は、らい予防上必要と認めるときは、一定の職業に従事することを禁じ、また、古着、古布団などで病毒に汚染し又は汚染の疑いのあるものの売買、収受を中止し、これらのものの消毒・廃棄を命じ、若しくは消毒・廃 棄を行うことができるとされました。この法律の以前は、放浪してるらい患者だけに適応していたのですが、これを制定して日本の全てのらい患者に当てはめたのです。そして、公立の療養所が国立となり、国家予算が形状されるようになります。

昭和7年 群馬県の草津に国立療養所「栗生楽泉園」が開園。

昭和8年 沖縄県に国立療養所「宮古療養所」(後の宮古南静園)が開園。

昭和9年 室戸台風により外島保養院が壊滅的な被害を受ける。入院患者173名が遭難死亡。
職員3名が殉職、職員家族11名が死亡する。
生存患者424名は全国の各療養所に分散し委託収容された。

昭和10年 鹿児島県に 国立療養所「星塚敬愛園」が開園。

昭和11年 長島愛生園で「長島事件」がおきる。
この事件の要因として、国は療養所と偽り患者を刑務所と同様犯罪人として扱いをしていたのであるから起こるべくして起こった事件であったと言えよう。

当時、愛生園は890名の定員に対し、1100名を超えるという過密状態であり、患者に係る経費は3割低下、入所者の生活は貧窮
居室は12畳半に8名から10名、夫婦舎も6畳1間の部屋に2組の夫婦を同居させるという非人道的な状態であった。  

また、定員超過により患者作業の作業賃の支出が3倍以上となり、作業賃の捻出が困難になった園は、8月10日、夏期早朝作業のはじまる午前5時30分に作業場の総点検を実施し患者側の反発を買う。

同日、逃走を計画していた4人の患者が検束、監禁室に入れられた。
これらが契機となり、「長島事件」がはじまった。
入園患者らは作業放棄、全入園者によるハンスト、服薬をも拒否した。
入園者大会で決議された要求書には待遇改善・自治性の認可・園長4幹部の辞任内務省への直接陳情・内務省係官の視察を要求したが交渉はまとまらなかった。
県は交渉が長引く中、警察隊を導入。
岡山県特高課長の斡旋と仲介により8月28日に収束した。


昭和11年 内務省は全国衛生部長と療養所長の合同会議を招集し、「らいの根絶策」(昭和5年)
を元に「らい根絶20年計画」を策定しました。
これは10年後までに病床数を一万床にし、その後10年で「らい病を根絶する」としました。
それに沿う形で全国の無らい県運動により山間部など僻地にも徹底的に警察官などによる逃走したらい病患者狩り(らい患者強制収容)が強化されます。
この政策、言い換えればらい患者皆殺し計画とも言えます。


昭和14年  草津栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)が設置される。
この監房は特別病室と呼ばれ、懲戒検束権による所長の判断で
些細な理由でも患者が全国から送り込まれました。

此処では、8年間で93名が収監されたことが記録されていたがその記録も残っているものだけでの判断で間違いなくそれ以上の人が収監されているということです。
そして記録では獄死者が14名、監禁中に衰弱し出所後に死亡した者は8名。

この特別病室は、厳重な施錠がなされコンクリート製の壁に囲まれ
一部屋ずつ切り離されていて合計8部屋で構成されていた。
縦13センチ横75センチのはめ殺しの窓が壁の上部に一つ。

床は板張り、用便のための穴が一つ、監房の広さは4畳半に満たない広さだった。
地下から約30センチほどの場所に食事用の小さな椀が一つ通る程度の穴が一つ。


そしてこの建物が異様なことに、建物全体に屋根があるのではなく
一つの区画のコンクリートの塀の中で監房部分のみ屋根に覆われていて
他、全ての監房が屋根に覆われていないのである。


その外は幾重にも高い塀が張り巡らせてあり、監房の中は天候の悪い時などは昼夜の区別もつかないほどであったと言う。   
当然、掃除などもされることなく湿気も酷く不衛生であった。
当時の冬は気温がマイナス20度近くまで下がる。

暖房用具などは無く患者は薄い布団だけでその寒さを凌いでいた。
死亡した患者は布団ごと床に凍り付いて剥がれなかったと言うから
その凄まじい寒さは計り知れない。

間違い無く、らい患者絶滅のために作った監房であろう。
当時、全国の療養所では、患者が反抗したりすると「頭を冷やしに草津にいくか?」と言うような脅し文句を使ったと言う。
入所者としては「草津」は生きて帰れない場所と言う位置づけであったと言える。

昭和15年 厚生省は「無癩県運動」の徹底を通知する。
全国の療養所では、現金の代わりとして療養所内だけで使用できる通貨として園内通用券が使われた。入所者の外出及び脱走を防ぐ目的で現金を所持させなかったのである。

昭和16年 日本らい学会で小笠原登博士学会から糾弾される。小笠原博士は大正4年京都帝大医学科を卒業、同校で薬物学を研究。大正14年、皮膚科泌尿器科、大正15年、皮科特別研究室主任。昭和16年には同大学の助教授。
小笠原登博士は、らいの発病は感染よりも体質を重視すべきことで、らいは不治ではないとの考えから、当時の隔離政策に反対する。
この年国立療養所に組織変更される施設、松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園、菊池恵楓園。12月8日「太平洋戦争開戦」

昭和17年  大島青松園の「大島学園」が国民学校令に基づき「庵治第二国民学校養護学級」として認可される。
政府は学校と定めたものの実体は教師など存在せず、予算すら無い状態だった。また太平洋戦争中であり、児童は奉仕と言う名の労働に駆り立てられ、栄養失調と過労のため幼くして亡くなる児童が後を絶たなかった。 

昭和18年  アメリカのカービル療養所のファジットが、プロミンにハンセン病の治療効果があることを発表する。国立療養所奄美和光園(鹿児島県)開園。

昭和20年  国立療養所駿河療養所(静岡県)開園。
8月14日太平洋戦争無条件降伏。8月15日終戦を告げる玉音放送。

昭和22年  日本国憲法施行、「国民主権」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」が基本理念である。
日本でプロミンの使用が始まる。
ハンセン病にはプロミンが有効であったが、政府はプロミンの購入予算が不充分で、投与を希望する全員に行き渡らなかった事に対し、全国の患者がプロミン獲得運動を開始。
大島青松園の庵治小学校養護学校と中学校養護学校に教育委員会から
はじめて教師が派遣
される。
その教師だが、職員室は生徒の立ち入り禁止、しかも授業は白衣に手袋にマスクを着用しての授業だった。

昭和23年  「優生保護法」の対象にハンセン病患者が加えられる。
ハンセン病を理由とする優生手術1,400件以上、人工妊娠中絶の数3,000件以上である。

昭和25年  1月16日、栗生楽泉園(草津)で入所者同士の反目から3人の入所者が殺害されるという事件が発生した。
同年2月15日、衆議院厚生委員会で光田健輔(当時の長島愛生園長)らが患者の取締りの強化を訴える。

同年3月17日、衆議院厚生委員会で、同月7日から同月10日まで栗生楽泉園の実地調査を行った丸山直友委員が、楽泉園殺人事件のような不祥事が起こらないようにするためには、園の周囲に柵をめぐらせ患者が自由に外出できないようにすること、現行の懲戒検束規定が憲法違反でないとの明確な解釈を加えることなどが必要である旨述べる。
       
これに対し、佐藤藤佐刑政長官は、「癩患者の特殊性にかんがみまして、療養所の中で脱走を防ぐため、あるいは園内の秩序を維持するために、ある程度の懲戒処分をしなければならぬという必要は、当然認められるのでありまして、癩予防法の法律の委任を受けて、現在は癩予防法施行規則というものを省令を規定されておりますが、この法令の根拠がありますれば、必要なる限度において懲戒処分を行うことは適法である。」とした。これにより、旧法の懲戒検束規定に基づき懲戒処分を行うことができる旨の答弁をした。
プロミンの政府予算が大幅に計上される。

昭和26年  全国国立らい療養所患者協議会が結成される。
栗生楽泉園特別病室事件、プロミン獲得運動等を契機に入所者が団結して隔離政策解放を求める動きが活発になる。
昭和26年2月、入所者の全国組織である全患協が結成、この全患協が中心となって「癩予防法」の改正運動が盛んになった。
       
藤本事件起きる。
この事件は、藤本容疑者がハンセン病患者であったため捜査、公判、上告、死刑執行の過程で患者に対する差別と偏見が影響公正さが欠如した裁判という疑いがある。
日本の裁判史上に問題を残した事件であった。
       
昭和26年8月1日、熊本県菊池郡水源村、農業・藤本算(当時50歳)宅へ竹にダイナマイトをくくりつけたものが投げ込まれ、算と二男公洋(当時5歳)に、それぞれ全治10日間、一週間の負傷を負わす事件が発生した。
この事件の容疑者として同村の藤本松夫(当時29歳)が逮捕され、
昭和27年6月、熊本地裁の菊池恵楓園出張裁判で懲役10年の判決を受ける。
       
裁判では、被害者の算が同村役場に勤務中、熊本県衛生課のハンセン病調査に際し、松夫を患者として報告、そのため松夫は突然菊池恵楓園への入所通告を受ける。

藤本容疑者は平和な生活を脅やかされたのは、算の密告が一切の原因と恨み犯行に及んだとされた。しかし、容疑者藤本は無実を主張、福岡高裁に控訴したが控訴は棄却された。

有罪の物的証拠として爆破に使った導火線やひもと同じ者が警察の家宅捜索で発見されたとしていたが、藤本やその家族の話によれば、家宅捜索の際には何もなかったのに、あとで警察に呼び出された際、自宅からでた証拠物件だとして見せられて驚いたと話しており、不審な点が多い事件であった。
       
この後、藤本は菊池恵楓園内の拘置所に収容される。
しかし、昭和27年6月15日、拘置所を脱走、指名手配される。
藤本が脱走中であった同年7月7日朝、水源村の山林で算が上半身に20数箇所の切刺傷を負い惨殺されているのを小学生が発見した。
       
その数日後、藤本は付近の山畑で逮捕される。
昭和28年8月29日熊本地裁の出張裁判で死刑の判決を受け、同年12月1日福岡高裁に控訴、5回の出張裁判の後、昭和29年12月13日控訴が棄却され、原審どおり死刑を宣告された。

その後弁護団が最高裁に上告したが2回の口頭弁論の後、昭和32年8月13日上告は棄却された。
弁護団は直ちに判決訂正申し立てを行うものの、この申し立ても却下されたため、再審請求を第一審の熊本地裁に提出している途中であったが昭和37年9月14日、刑が執行される。

昭和28年  「らい予防法」制定。
第一章 総則

(この法律の目的)
第一条 この法律は、らいを予防するとともに、らい患者の医療を行い、あわせてその福祉を図り、もつて公共の福祉増進を図ることを目的とする。       

(国及び地方公共団体の義務)
第二条 国及び地方公共団体は、つねに、らいの予防及びらい患者(以下「患者」という。)の医療につとめ、患者の福祉を図るとともに、らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない。 

(差別的取扱の禁止)
第三条 何人も、患者又は患者と親族関係にある者に対して、そのゆえをもつて不当な差別的取扱をしてはならない。

建前は素晴らしい総則です。が、しかし以下の条文をよく読んでいくととんでもない法律と言う事が良くわかる。
入所に関する規定はありますが、出所に関するものはありません。
以下少し抜粋します。


(国立療養所への入所)
 第六条 都道府県知事は、らいを伝染させるおそれがある患者について、らい予防上必要があると認めるときは、当該患者又はその保護者に対し、国が設置するらい療養所(以下「国立療養所」という。)に入所し、又は入所させるように勧奨することができる。
       
2 都道府県知事は、前項の勧奨を受けた者がその勧奨に応じないときは、患者又はその保護者に対し期限を定めて、国立療養所に入所し、又は入所させることを命ずることができる。

3 都道府県知事は、前項の命令を受けた者がその命令に従わないとき、又は公衆衛生上らい療養所に入所させることが必要であると認める患者について、第二項の手続をとるいとまがないときは、その患者を国立療養所に入所させることができる。

この当時すでにらい菌の感染力は殆ど微力なことが分かっていながらもですから呆れます。
上記はハンセン病患者を見つけたら強制収用することが出来ると言う以外の何ものでもありませんね。


(物件の消毒廃棄等)
第九条 都道府県知事は、らい予防上必要があると認めるときは、らいを伝染させるおそれがある患者が使用し、又は接触した物件について、その所持者に対し、授与を制限し若しくは禁止し、消毒材料を交付して消毒を命じ、又は消毒によりがたい場合に廃棄を命ずることができる。

ハンセン病の患者が触ったもので感染するとは恐ろしい事実の歪曲です。       

(国立療養所)
第十一条 国は、らい療養所を設置し、患者に対して必要な療養を行う。
       
(福利増進)
第十二条 国は、国立療養所に入所している患者(以下「入所患者」という。)の教養を高め、その福利を増進するようつとめるものとする。
       
(更生指導)
第十三条 国は、必要があると認めるときは、入所患者に対して、その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができる
      
上記、素晴らしい文言です。学校も作られたんです。入園者は農作業や火葬の技術も教えていただいてます。
園内の学校の先生は白衣で手袋にマスクの完全武装。通年風邪でも召していたのでしょうか。


(外出の制限)
第十五条 入所患者は、左の各号に掲げる場合を除いては、国立療養所から外出してはならない。
一 親族の危篤、死亡、り災その他特別の事情がある場合であつて、所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めて許可したとき。
二 法令により国立療養所外に出頭を要する場合であつて、所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。

3 所長は前項第一号の許可をする場合には、外出の期間を定めなければならない。

4 所長は、第一項各号に掲げる場合には、入所患者の外出につき、らい予防上必要な措置を講じ且つ、当該患者から求められたときは、厚生省令で定める証明書を交付しなければならない。

患者は外出禁止。しかも、政府のお墨付きを貰わないと園外で捕まる恐れがあるので貰わないといけなかったんですね。
そして園者が外出し指定日時に戻らなかった場合は拘留または過料が科せられました。
らい病を患うとそれは病気ではなく、犯罪者と同等に扱われたのですね。


(秩序の維持)
第十六条 入所患者は、療養に専念し、所内の紀律に従わなければならない。
2 所長は、入所患者が紀律に違反した場合において、所内の秩序を維持するために必要があると認めるときは、当該患者に対して、左の各号に掲げる処分を行うことができる。
一 戒告を与えること。
二 三十日をこえない期間を定めて、謹慎させること。
       
3 前項第二号の処分を受けた者は、その処分の期間中、所長が指定した室で静居しなければならない。
4 第二項第二号の処分は、同項第一号の処分によつては、効果がないと認められる場合に限つて行うものとする。
5 所長は、第二項第二号の処分を行う場合には、あらかじめ、当該患者に対して、弁明の機会を与えなければならない。

上記は怖いです。懲戒検束権の行使を完璧に認めてます。
30日の謹慎を超えない事とはありますが、所長の指定した「室」での静居とは独房です。がしかし、30日目に独房から一旦外に出し、入浴させたり髪散髪してまた入れる。
法の解釈とは権力者の都合でどのようにも解釈されます。
事実、500日以上入れられた人も居ました。
このような法律があるのですから、有識者以外の国民は、らい病というものは恐ろしいと言う観念を懐くのは当然で、誰もが感染発病しないように考えますね。


昭和29年 黒髪校事件
菊池恵楓園(熊本)の入所者の扶養児童を養育する同園附設の児童福祉施設「竜田寮」の児童は一般の小学校(黒髪小学校)への通学が認められていなかったが、宮崎園長(当時の菊池恵楓園長)の働きで昭和29年4月から入学が認められる。

がしかし、入学式当日、PTA会長ら一部保護者が竜田寮の新一年生4人の通学に反対し、小学校の校門に立ち「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等、書かれたポスターを貼るなどして、竜田寮児童の登校を阻止した。

この問題は、昭和30年4月、熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、そこから通学することで決着をする。

昭和30年   長島愛生園内に「岡山県立邑久高等学校定時制課程新良田教室」開校。
教師は当然完全防備、生徒の職員室への立入りは禁止、答案や作文などは消毒箱に入れてから手にするなどの状態での授業であった。

昭和31年  「らい患者の救済及び社会復帰に関する国際会議」がローマで開催。
マルタ騎士修道会により開催されたこの会議は、「らいは伝染性の低い疾患」であり、「治療し得る」ものであり、差別待遇的な諸立法の撤廃、在宅医療の推進、早期治療の必要性、社会復帰援助等を決議。

昭和35年   WHO(世界保健機関)はハンセン病患者の差別法撤廃及び外来治療を提唱。      
この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきであり
無差別の強制隔離は時代錯誤、廃止されなければならないとした。

昭和46年 リファンピシン治療開始リファンピシンを服用すると、数日で体内かららい菌の感染力を失わせることができるとされていて、これにより化学療法は更に進歩する。

昭和56年   WHO(世界保健機関)はリファンピシンに加えてファジミン及びダプソン(ジアフェニルスルホロン)の三つの薬を使用する多剤併用療法を提唱。

昭和63年   岡山県の長島に人間回復の橋と呼ばれる「邑久長島大橋」が開通。
長島愛生園と邑久光明園が所在する長島と対岸の虫明を隔てるわずか30メートルしかない水路に隔離は必要が無いことの証明として橋を架ける。

平成8年   「らい予防法」廃止
厚生大臣は、廃止法の提案理由の説明の中で、「旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの苦しみを与えてきたこと」等について、「誠に遺憾とするところであり、行政としても陳謝の念と深い反省の意を表する」と述べた。



2005年8月20日、初めて栗生楽泉園の中へ入ってみました。
正門から車で園内へ入る。中は徐行で制限速度20キロ。
強い陽射しが照りつけ、蝉の声がだけがうるさく、園内は静まりかえっていました。

時折、職員らしき人?を1人程度見ただけでした。
案内板まで辿り着くとそこから先右が居住区でした。
その左に小さな郵便局とその前に小さなスーパーが・・
今でこそ開放されていますがその昔は通行所各所に
厳重な扉と警備を配置していたのでしょう。
それをうかがわせる作りでした。
そして居住区の方へ・・・。



今現在でもこの栗生楽泉園には200名を超える入居者がいるのですが、人が住んでいる気配は感じられず、ただ小さな平屋建長屋と庭に咲いていた真っ赤なサルビア、そしてひまわりがとても印象的でした。

そして居住区に隣接する納骨堂へお参りに。
強制隔離により故郷に帰ることなくここで亡くなっていった人達に
「安らかに・・・」と願いを込めてお参りしてきました。
その横に坂口厚生大臣の植樹が・・・存在感のないその樹木を
私は冷ややかに見つめました。

何気に気がついたのですが、園内全土に音楽が流れていたようでした。
童話で「おてて、つないで、のみちをゆけば、みんな、かわいい、ことりになって・・・・」でした。
後日分かりましたが園内の目の不自由な方の為だそうです。

しかし、この園内の空気はあまりにも重たかったです。
入る前はデジカメを持ち、あそこを撮ろう、あれも撮ろう
などと相棒に注文をつけていた私ですが、実際に園内に入り
居住区に入り納骨堂に参り・・・・・・・・
むやみやたら、写真を撮ることも憚かられる、非常に私には重たいものがありました。

そして、今回この栗生楽泉園に来て絶対に見よう、と思っていた
ドイツのアウシュビッツに等しい日本のアウシュビッツとも言える重監房跡。

園内中央の案内板にもその跡については書かれていなかったので
一体どこのあるのだろう?と園内を走っていると、おそらく園の職員だろうか?
私達の車に近づいてきて、一体何をしているんですか?と聞いてきました。
重監房跡はどこにあるのか?と私が聞くとその職員は正門を入ってすぐ右に跡地はあるが行っても何も残っていない、と説明を受けました。

早速、正門に戻り重監房跡を探しました。
正門を入り少し歩くと右手に入る小さな道がある。
そこは園内に流れていたあの曲のスピーカーが置いてあり、
曲がより一層大音量で聞こえる場でもあった。
そしてバードウォッチングの看板があり野鳥鑑賞もできるハイキングコースにもなっているようだ。

案内する看板はいっさい無かったのですが、なんていうのでしょう?
この狭い道の奥にあるな?と直感しました。
そしてその道を右に曲がり奥へ奥へと進んでいくと、重監房跡地がありました。

建物自体は存在していませんが、コンクリートでできた基礎の枠組みは
しっかり存在していて、その作りの醜さ恐ろしさはその枠組みだけで私達には十分に理解できました。

ここが通路でここがトイレ、ここが独房。ここが名ばかりの医療室。
そして、跡地前面中央には大きな石碑に重監房跡地と刻まれています。
先程、園内の空気は大変重かった、と書きましたが、ここ重監房跡地は私にとって最も重い場所でした。
相棒と少しの間重監房跡地に立っていましたが私は言葉もなくただただ重い、重いだけでした。
何の落ち度もなくこの重監房に押し込められ生きながら地獄の苦しみに
耐えてそして亡くなっていった元患者の方々の悲しみ、苦しみが伝わってくるのです。

この時撮影したここの写真はすべて削除してしまいましたので
お見せすることは出来ませんが、他のハンセン病関係のHPにも
写真は掲載されていますので興味のある方はそちらをご覧ください。
写真はいらない写真だから削除したのではなく、この重監房跡地は
写真で見ても私には大変重すぎました。



「ハンセン病」政府はこの病気は間違いなく完治すること、感染の心配はないこと、それを承知でどうして強制隔離したのか、どうして強制隔離を解除したのか、元患者の方々が強いられてきたこと、それをもっと国民に伝えるべきだ。

元患者の方々の人権は復活できただろうか?
できていない。
園というコロニーに長い長い間閉じ込められ、高齢になった今故郷に帰りたくても故郷には肉親はもういない。
また、この病気の誤った認識を広めた国のせいで元患者の方々は故郷を
追われるようにして園に入れられたのだ。

政府により強制的に奪われた長い長い時間は何をどう償っても償い切れないが、とにかく元患者の方々のこれからの支援策をより充実させて欲しいと切に願う。

まだらい予防法が廃止され数年が経過しますが、正しい認識で
この病気を見れる人は実際にどのくらいいるでしょうか。
元患者の方達がおかれてきた過去の苦しい立場を理解してる
国民はどのくらいいるでしょうか。

昨今、どこかのホテルがハンセン病の元患者の方達の宿泊を拒否した、という事件がありました。
こんな恥ずかしい行為をしている人もいるんですね。
このホテルはアイスターという東京の化粧品会社が母体です。
化粧品会社と言えば薬関係のエキスパートとも思いますが、どういう認識をしているのでしょう。
勿論、強い怒りを覚えました。


過去から現在、普通に社会と接してきた私達がこの病気について
正しく理解し、そして、このハンセン病の元患者の方々に対する国が行ってきた人間とは思えないおぞましい非人道的らい患者根絶政策、これを高齢になってきた元患者の方々に代わり、私達がしっかりと伝えていかなくてはならないのだと思いました。

らい予防法が廃止され自由の身となった患者の方々にとっては
長い長い国の非人道的らい患者根絶政策との闘いと、自分達の人権の完全回復との闘いはまだまだ終わっていないからです。


*上記は、岡山県ハンセン病の正しい理解を進める普及啓発事業実行委員会資料及び「日本らい史」(山本俊一 著)復権の日月(全国ハンセン病療養所入所者協議会 編)「とがなくしてしす」(沢田五郎 著)「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決、同裁判原告団の最終準備書面等を参考に作成しました。

また、差別的な文言も書かれていますがハンセン病及び差別の啓発という趣旨でありますので理解してくださるようお願いいたします。

コメント
この記事へのコメント
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/01/18(火) 20:14 | | #[ 編集]
草津温泉行ってきました!
草津温泉って街中硫黄の匂いが
漂ってるんですね〜!
でもすぐになれちゃいました。(笑)
で、湯畑から少し離れたホテルに泊まりましたよ。
天皇陛下が泊まる所らしいですが・・
白色を考え期待してた私。。。
しかし遊里さん。無常にもお湯の色は無色でした。
そして肌にビリビリと刺激が・・・。
これって万代鉱だったのでしょうか?
次回行く時は、遊里さんのブログを念入りに見て、夢見る白濁の湯に入りたいと思います。


2005/10/09(日) 07:26 | URL | メロン #-[ 編集]
太郎さんへ
太郎さん
ありがとう。

また読みにきて下さいね♪
2005/09/23(金) 19:42 | URL | 遊里 #-[ 編集]
メロンさんへ
メロンさん。
投稿ありがとう。
その定義は案外簡単なものかもしれませんよ(笑)

草津温泉のお湯は最高に肌に効きますよね?(笑)
私も仕事で疲れたらのんびり休養しに行ってます。
これからの季節は寒いけど温泉も本番ですよね〜。
そっちのお話しもいつか聞かせて下さいね。
お湯の感想(笑)
2005/09/23(金) 19:38 | URL | 遊里 #4RtvEo.U[ 編集]
こっちか・・・
ハンセン病のこと、こちらに書いたほうがよかったんですね。別項に書いてしまいました。
2005/09/22(木) 18:15 | URL | 紅の熊 #-[ 編集]
初めまして遊里さん。
私がハンセン病をはじめて知ったのは九州の黒川温泉のホテルの報道がなされたときでした。
私は、その当時ハンセン病の方達は障害者と言う事を振りかざし行政と健常者に対し我侭し放題のどうしようもない奴等と一緒だなと。
そのくらいの認識しかありませんでした。
それと、今まで私はハンセン病はインフルエンザみたいに感染するものだと思っていました。
本日、遊里さんのブログを見て目から鱗が落ちました。

この病気は、普通ならばうつらない、感染力は極めて微弱と言う事を恥ずかしながら知りました。
風邪のウィルスやインフルエンザウィルスのほうが恐ろしいですね。

そして、なんと言えば良いのでしょう?国を挙げての患者皆殺し計画、これはもう国家権力における殺人ですね。
国を動かす役人の個人的な差別を国民全員に押し付けたのでは無いでしょうか?
まあ、政府の政策だからどうしようもないものですが。

差別、この人間のDNAにすり込まれた本能は、何を基準にして差別とすればいいのでしょう?
差別の定義というもの、難しいですね。


今度のお休みに草津温泉に行こうと思いネットサーフィンをしていましたら
遊里さんのブログを見て、ついついカキコしてしまいました。
2005/09/06(火) 18:00 | URL | メロン #-[ 編集]
ハンセン病、色々考えさせられますね。
自分がもし・・・と考えたら
やはりこのままではいけませんね。
こういう事実を1人でも多くの人に知っていただきたいなと思いました。
2005/09/02(金) 08:39 | URL | 太郎 #-[ 編集]
地獄谷と大湯沼:登別温泉
TBさせていただきました。
2005/08/29(月) 09:13 | URL | あいどまちっくなBlog #vQU5PwVA[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://kusatsuonsen.blog17.fc2.com/tb.php/17-2ea03b59
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
代表的な女流歌人、与謝野晶子が「地獄谷業のけむりとなしがたし恋の心のつぶやくものを」と温泉の風情を詠んだ歌がある。なかなか風情があっていい歌だ。ここでいう地獄谷とは、登別温泉の事である。その登別温泉は、全国的にも人気の高い温泉だ。私は、仕事で2回プライベ
2005/08/29(月) 09:12:51 | あいどまちっくなBlog